「パン工房ゆっくり」山根 叔子さん

あせらず、あわてず、ゆっくりと

兵庫県猪名川(いながわ)町、大阪市内から電車とバスで約1時間のところ。山根 叔子(やまねよしこ)さんが営む「パン工房ゆっくり」は、緑に囲まれた自然豊かな地にあります。

山根 叔子さんと、パートナーの大源さんのご夫婦で営む笑顔あふれる温かい空間がそこにはありました。

保育士の道へ

今から6年程前まで、叔子さんは保育士として働いていました。
彼女の気さくで明るい性格からは、その面影を感じさせます。

昔から子どもが好きだったことや、安定して長く続けられるため保育の道を選んだ叔子さん。
彼女は今でも保育士の仕事が大好きだと言いますが、就職当初は周りに圧倒されて、自分との差に不安を感じていました。

「周りの保育士がすごく完璧に見えて自分と比較してしまったんです。人間的にも、正しいことを正しいと言える真っ直ぐさも自分よりずっと上で、自分のことが小さく思えてしまいました。」

そんな時、彼女の母親が「しんどかったらやめても良いんだよ。」と優しい言葉をかけてくれたと言います。その言葉でいっぱいになっていた心に余裕が生まれたのかもしれません。

日々、成長していく子どもたちとともに過ごす中で、叔子さん自身も自然と元気を取り戻し、自信を持つようになりました。

保護者の子どもたちへの思いや悩みを一緒に分かち合い、共に子育てを支える。
その中で彼女は気づけば約35年もの間、保育士としての仕事を全うしてきたのです。

パンづくりとの出会い

叔子さんとそのパートナーである大源さんは、結婚当時は大阪府内の箕面市で暮らしていました。忙しい仕事をこなしながらも、愛犬のゴールデンレトリーバーとともに平穏な生活を営んでいたのです。

しかし、大源さんはやがて仕事の悩みに苦しむようになります。
精神的に追い詰められた彼は心療内科に通うこととなり、一時は転職についても真剣に考えたほどでした。

その時、医師から「仕事から距離を置くことが最善」とのアドバイスを受けました。 そして、「それが難しいなら、仕事とは異なる新しい環境に身を置いてみると良い」とも勧められたのがきっかけで、新たな趣味を探し始めました。

以前からワインが好きだった大源さん。
「ワインに合うパンを自分で焼いたら楽しいだろうな」と思い、天然酵母のパン作り教室に参加することを決めたのです。

最初は軽い気持ちで始めた習い事でしたが、パンづくりの楽しさとともに、多種多様な職業の生徒の方たちとコミュニケーションを取ることで、少しずつ大源さんの気持ちも軽やかになっていきました。
そして、教室に通い出して2年ほどたった頃には、仕事面でも、同期の仲間や色々な人の支えもあり、元気な日々を取り戻すことができたのです。

大源さんの変化を見て、叔子さんもパン作り教室に興味を持つようになります。そして大源さんがパンづくりを始めてから1年後、彼女自身が教室に足を運ぶことを決めたのでした。

最初は基本から始めたパンづくりも、徐々にその楽しさに魅せられていった彼女。大源さんの仕事が忙しくなり彼が教室を辞めた後も、一人で教室に通い続け、最終的にプロコースまで修了させてしまったのです。

「途中で引っ越したので教室が遠くなってしまったんですが、根が真面目なのでやると決めたら最後までやる性格なんです。」と叔子さんは笑顔で語ります。

「それに、やっぱり保育士以外の人の話を聞くのも面白かったんです。」

自然に囲まれた暮らし

パートナーの心の病をきっかけに出会ったパンづくりは、いつしか夫婦共通の趣味となりました。

「パンづくりを楽しみながら、愛犬とともに自然豊かな環境で伸び伸び暮らしたい」

都会で生活するうちに、自然に憧れを抱くようになった叔子さんは、新たな住まいを探し始めました。たくさんの場所を探し続けて数年後、ようやく見つけたのが現在の住まいでした。

「引っ越した時、地元の人たちが歓迎会を開いてくれたんです。それがとても嬉しくって。」と彼女は感謝の気持ちを語ります。

こうして、叔子さんご夫婦の夢だった自然に囲まれた生活が始まったのです。

足の手術

念願だった自然に囲まれた場所で、新たな生活を始めた叔子さん。
これまでより通勤時間は増えましたが、休日には愛犬との散歩を楽しみ、都会では味わえなかった暮らしを満喫していました。

しかし、長年抱えていた変形股関節症が悪化し、やがて股関節が思うように動かなくなりました。杖を使わないと歩けないほどの身体になってしまったのです。

「保育士として、このまま続けることが出来るのだろうかと、悩む日々が続いたんです。」と語る叔子さん。

周囲の人たちからのサポートを受けつつも、彼女はこの状態で働き続けることに限界を感じます。
大好きな保育士の仕事を続けるために、ついに、人工股関節への置換手術を受けることを決意しました。

そして、約1ヶ月の入院生活の後、叔子さんは再び保育士として職場に戻ることになりました。

保育士からパン屋

手術が無事に終わり、保育士として現場に復帰した叔子さん。
杖がなくても歩行は出来るようになったものの、人工股関節となった彼女の動きには制限がありました。

子どもたちの安全を確保するために全身を使って動く保育の仕事。その仕事に対して「自分はどこまで対応できるのだろう」という不安を抱えつつ、叔子さんは日々を送っていました。

「もしも昔のように自由に動けたら」という思いが少しずつ大きくなり、彼女の心の中には新たな道を考えるようになりました。

そんな中、叔子さんは「ライフステージが次の段階に移るときが来たのかもしれない」と感じ始めます。 そして長い時間をかけて悩んだ結果、同僚よりも5年早く大好きだった保育士を退職することに決めたのです。

「退職したからゆっくりしたいという気持ちはなくて、休んでいられないと思ったんです。何か新しいことをしなくては、という焦りもありました。」と彼女は話します。

そして選んだのは、これまで趣味として楽しんできた『パンづくり』を、いよいよ本格的に『パン屋』として始めることでした。

しかし、店を開くには思ったよりも多くの手続きが必要で、中でも県からの許可をもらうのに時間がかかりました。保健所からの開業許可はすぐに降りたものの、退職してから5ヶ月後にようやく県からも許可が得られたのです。

そして、ついに叔子さんがパン屋をオープンする日がやってきたのです。
35年間勤めた保育士の仕事を終え、パン屋としての新たな生活が始まった瞬間でした。

天然酵母

パンの材料には、身体に優しいものを選んでいます。手間と時間をかけて、一つ一つゆっくり丁寧に作り上げます。材料は国産小麦と天然酵母など、厳選したものを使用しています。

叔子さんが初めてパンづくりを習ったのは、天然酵母を使った教室でした。パンを作り始めてから20年もの間、継ぎ足し続けているのはヨーグルト酵母です。

「20年も一緒にいると、なんだか自分に懐いてくれている気がするんです。」
「小旅行に行く時は『すぐ帰ってくるから待っててね!』なんて声をかけると本当に待っていてくれるんです。」

まるで酵母が我が子のようだと、叔子さんは嬉しそうに話してくれました。

パンづくりが繋いだ新たなチャレンジ

店内には、叔子さんが描いた己書(おのれしょ)が飾られています。数年前、知り合いから「店を営業していない日に、己書をする場所として店を貸して欲しい」という依頼で始まった教室。叔子さんも一緒に参加するうちに、徐々にその楽しさに魅了されていきました。

「己書にある言葉は全て前向きな言葉ばかり。見たり、書いたりするとより一層ポジティブな気持ちになれるんです。」「それに、自分で作った己書は世界に一枚だけ。」と話す彼女。

そして、一昨年には師範の資格を取得し、月に数回、お店でワークショップを開いています。

「絵が苦手だと不安そうにしていた人が『楽しかった!』と言っている姿を見るのが本当に嬉しいんです。」

一度始めたら、粘り強く取り組むことが彼女の持ち味。趣味で始めたパンづくりや己書が、自分のお店や道場を開くまで。その原動力はとことん楽しむことにあるそうです。

人の笑顔が好きなんです

叔子さんがパンづくりの準備を始めるのは、日曜日の営業に向けて金曜日から。

「実は、木曜日になるとちょっと気分が落ち込むんです。日曜日は深夜0時から準備を始めるので、それはもう、年齢的にもきついんです。」

それでも、彼女が頑張れる理由がありました。

「私は人と話すのが好きなんです。」

お店での出会いを楽しむ叔子さんはいつでも笑顔です。

「何気ない会話の中から、お客さんの笑顔が見られたら、私も楽しくなるんです。己書で出会った『楽しいから笑うんではなくて、笑うから楽しい』という言葉、本当にそうだと思ったんです。」

彼女はお客さんに笑顔を届けることを大切にしています。 「お客さんがパンを買うついでに元気をもらってくれたら嬉しいんです。」

「やっぱりパンが全部売れた時の感動は何にも代えられないんです。たとえ売れ残ったパンがあっても実家に持っていけばいいんです。添加物を使わず、体にいいもので作ったパンを家族に渡せるのは、本当に嬉しいです。」と彼女は話します。

あせらず、あわてず、ゆっくりと

現在「パン工房ゆっくり」は毎週日曜日だけの営業です。

店を開くまでに色々な出来事がありましたが、それらをゆっくりと時間をかけて乗り越えてきました。パンを作る際の酵母も、時間をかけてじっくりと育てます。そして、お客さんにはここではゆっくりくつろいで欲しい。そんな想いが込められて、『パン工房 ゆっくり』という名前が付けられました。

店の外には木製デッキとテーブルが設置され、周りの田園風景を見ながら「ゆっくり」して欲しいという思いを込めて、座った時に田んぼが見渡せる高さに設計されています。

「ここに引っ越してきた時、みんなが暖かく受け入れてくれたことが嬉しかったんです。だから、近所の人に喜んでもらえるお店が良いなあと。農家さんも多いので、長靴でもみんながくつろげる場所を作りたかったんです。」と叔子さんは語ります。

「将来は、自分たちの体調を考慮しながら、長く細く続けていけたらいいと思っています。」

地元の人々との繋がりを大切にしつつ、家族や愛犬のゴールデンレトリバーとの時間をゆっくりと過ごす、緑の中の小さなパン屋さん。

そこには訪れる人々を暖かく迎え入れる、笑顔溢れる心地よい空間が広がっています。

パン工房ゆっくり


兵庫県川辺郡猪名川町