「悠々閑々」 林 悠紀さん

パンを通したコミュニケーション

神奈川県川崎市にあるパンと焼き菓子のお店「悠々閑々」。店主の林 悠紀さんがつくるのは、国産小麦で作った安心して食べられるパンとお菓子。忙しい日々の中で少しでもゆっくりしてほしいと、パンに込めた思いを伺いました。

神奈川県川崎市は、東京都心や横浜へのアクセスに恵まれたベッドタウンで、大型ショッピングモールやレジャー施設なども充実した人気のエリア。また、多摩川が流れており、緑豊かな自然環境が広がっているので、都市部にいながら大自然にいる雰囲気が味わえます。

向河原駅を降りると、昔ながらの商店街が広がる街並み。多摩川方面に歩くこと3分ほど、路地を左に曲がると看板が見えます。

この細い路地を通った先にあるのが、パンと焼き菓子のお店「悠々閑々」です。
小窓の向こうから、「いらっしゃいませ」と優しく出迎えてくれたのは、穏やかな雰囲気の店主、林 悠紀さん。この地に店をオープンしてからもうすぐ5年。地元の商店街の人たちから愛されているお店です。

小窓の前には、悠紀さんが作った美味しそうなパンと焼き菓子のメニューが飾ってあります。用意している種類は15種類ほど。他にも、季節ごとに出す商品などを含めると、様々な商品があります。

中でも人気なのは、オープン当初からある「食パン」。フワフワもちもちの生地は、噛むほどに口の中にじんわりとやさしい甘みが広がり、たまりません。食パンを求めて買いにくるリピーターも大勢います。他にも、『悠々閑々』でしか見たことがないという「アーモンド棒」は、アーモンドの香ばしさがクセになります。

悠紀さんが作りたいのは、地元の人に「ほっと一息ついてもらえる場所」。
そのためには、「感謝の気持ちを忘れずに、小さいお店ながらにお客さんを楽しませ、今自分ができることをやっていきたい」と話してくれました。

悠々閑々

店名の悠々閑々は「ゆったりと流れる雲のような心地よい時間の流れ」という意味。また、名前の「悠紀(ゆき)」にもちなんで名付けられました。

現代の社会はなんでも「時短」を良しとしているけれど、忙しく過ぎていく中で、もう少しゆったりとした時間の流れを大切にしたい。便利さだけが全てではなく、アナログの温かみや、パン作りのように時間をかけた手間の中にも価値があるという思いを込めて、立ち上げられたお店です。
「私がマイペースなのもありますが、忙しい毎日を送る人々にとって、休日はゆっくりとした時間を過ごしてほしいなと思い悠々閑々という店名にしました。

昔から好きなモノ作り

「小さいころは、どんなお子さんだったのですか」
そう質問すると、嬉しそうに話してくれたのは、悠紀さんの人柄を語るうえで外せないエピソード。
「昔からモノづくりが好きで、どうやってできているかに興味がありました。」

電卓やおまけのおもちゃなど、中の仕組みが気になっては分解してしまい、しょっちゅう壊していたそうです。また、大工さんの仕事にも興味を持ち、その後をついて回っていたとか。

分野を問わず、モノを作ることに興味があった悠紀さん。お母様がパンやお菓子作りが好きだった影響もあり、「食べ物ってどうやってできるんだろう?」という疑問から、食べ物ができあがる過程にも興味を持つようになりました。

お母様と一緒に料理をする中で、特にパン作りの面白さに魅了されます。材料を混ぜて発酵させる過程や、焼いている間のワクワク感など、パン作りの魅力に惹かれていきました。

『悠々閑々』は、店作りから店内にある小物まで、悠紀さんの手作りと温かみが詰まった空間です。窓の下にカウンター用の木の板を設置したり、枕木を敷いたり、友人たちの協力で作り上げました。

店の看板作りにも、悠紀さんのセンスが光ります。友人の誘いで黒板アートのワークショップに参加したことがきっかけで、その技術を磨き、店の看板を作り上げました。コツコツとした作業を好む悠紀さんは、今も時間を見つけてはお店で使うスタンプカードや紙袋に押すスタンプも手作りしているそうです。

店のキャラクターは、義兄が考案し、悠紀さんがそれに手を加えて完成させました。外の看板は、店のオープン時に叔母が「ちょっと作ってみたから飾ってくれない?」とプレゼントしてくれたものです。これら全ては「趣味の範囲内」ということに驚きを隠せませんが、悠紀さんと家族の優しさが反映された、『悠々閑々』だけの特別なアイテムたちです。

『悠々閑々』は、家族や友人の温かな協力によって作られた、誰もがふらりと立ち寄りたくなるような居心地の良い場所です。悠紀さんとその周りの人々の優しさが、来店するすべての人に伝わる、心温まる空間となっています。

北海道で過ごした学生生活

悠紀さんは、子供の頃から動物が大好きで、将来の夢は獣医でした。しかし、獣医の道はなかなか厳しいものがありました。そこで、大学選びの際には、動物と触れ合える別の道として酪農学を選択。
自然豊かな場所が好きだった彼女は、北海道に憧れを持ち、北海道で学生生活を送ることにしました。

大学では、エミューの卵の利用方法や乳搾りが終わった後の牛の美味しく食べる方法など、食に関する広い範囲のテーマに興味を持ち、悠紀さんにとって新しい世界の扉を開くものでした。

「初めての経験ばかりで、大学生活は本当に楽しかった」と悠紀さん。方言が飛び交う、全国から集まった様々な価値観を持つ学生たちと交流する中で彼女自身も成長していったのです。

しかし、酪農業界の現実と向き合う中で、その道を生涯の仕事とすることに対する疑問を感じ、最終的にはその道を選ばない決断をしました。酪農に対する情熱が足りなかったわけではなく、むしろ自分にとって何が最も大切かを見極める過程で、他の可能性を模索することになったのです。

食の道へ:「命をいただく」ことの大切さ

悠紀さんは大学で、農業と食が深く結びついていること、そして「命をいただく」ことの大切さを学びました。この学びを経て、彼女は育てる側ではなく、作る側になること、つまり食に関わる仕事をすることを決心しました。

神奈川へ戻った彼女は、以前から好きでよく訪れていたパン屋に就職しました。パン作りには、自由自在に創造できる魅力、そして多岐にわたる工程が存在します。その「職人」としての技術に憧れ、パン屋での修業をスタートさせることになりました。

1年間の療養生活

大好きだった地元のパン屋に就職した悠紀さん。
未経験だったため、食材を切ったり、カスタードを炊いたり、天板を拭いたり、店舗にあるカフェで接客したりと日々、基礎的な業務を一から学んでいきました。

「家族よりも長い時間をスタッフと一緒に過ごしました。だけど、どれだけ忙しくても、パン屋の仕事がすごく楽しかったんです。」

労働時間は長く、休みも少ないハードな毎日でしたが、悠紀さんにとってパン屋の仕事は楽しさに溢れていたのです。

しかし、そんな思いにも限界が来ました。
ある日、仕事中に重い怪我を負ってしまいました。

これにより、悠紀さんは1年間の療養生活を余儀なくされました。

しかし、療養生活から戻ったあとも、悠紀さんはパン作りをしたいという気持ちは変わりませんでした。

「不思議なことに、怪我をした後もパン作りを嫌いになっていなかったんです。リハビリをしながら、続けたいと思いました。」

そう話す悠紀さんですが、パン屋の仕事は体力勝負。体が頑丈ではなかった悠紀さんにとって、ハードなパン屋の仕事は続けることができませんでした。

福祉施設の小さなパン工房「自分のパンを焼いてみたい」

パン屋を退職後、次に就いた先は福祉施設の小さなパン工房でした。

ここでは、カフェで提供するパンを作ることになり、スタッフたちと一緒にパン作りの全ての工程を担当しました。大規模なパン屋とは異なり、規模は小さいものの、一人で全ての工程を担う体制により、パン作りの流れを一から学び直す貴重な経験をしました。

「ここで初めてパン作りの段取りを学びました。ここのパン生地が美味しくって、今でもアレンジをして店のメニューとして使っています。」

新しい店でも楽しくパンを焼いていた彼女ですが、いつしか自分の内側で抱く感情と現状に、少しずつ違和感を抱くようになっていきました。

「パン屋の仕事は好きだけど、本当の自分を出せなかったんです。」

どうしてもルールに縛られて、自分のやりたいことが制限されてしまう。
いつしか悠紀さんは、漠然と「自分で店を持ったら楽しいんだろうなあ」と考えるようになりました。

今できること

悠紀さんがパン作りをする中で、ご両親や友人たちの支えが彼女の大きな後押しとなりました。自営業を営むご両親は、娘がいつか自分の店を持つ日が来たらと、休憩室として使用している場所を使ってもいいと提案してくれました。

しかし、悠紀さんの性格はあまり積極的ではなく、自分でパンを作ることには魅力を感じていましたが、自分のお店を持つまでのビジョンは持っていませんでした。

「ずっと迷っている姿を見かねて、パン教室で知り合った友人に、工房にするなら小さくても今できることからお店にするのが良いと背中を押してもらいました。両親からも『やってみたら?』と言ってもらえました。」

家族や友人からの温かい応援のおかげで、店をオープンすることを決断できたのです。背中を押され、彼女は「10月に店をオープンする」と決め、着々と準備に取り掛かりました。

私ができるベストのパンをつくればいい

店を持つことが未知の世界だった悠紀さん。

「お店をオープンして1年ほどは、『私が店をやってても良いのかな?』と不安ばかりでした。自分が作りたいパンより売れるパンを作るべきか、悩んだこともありました。でも作りたいパンを作って、美味しいと言ってもらえるなら、それでもいいのかな?と思ったんです。店をオープンして4年がたちますが、まだまだ自信をつけている途中です。」

彼女が少しずつ自信を持てるようになったのは、商店街の人たちの協力もありました。
オープン当初は、近所の方が「あそこのお店おすすめだよ!」と口コミでお店を広めてくれたり、雨の日には客足が悪くなることを心配してわざわざ様子を見に来てくれたりと応援してくれました。
「みんなに支えてもらっている、だからこそ頑張らなきゃと感じます。」

お客様からの、「また来ます」「ここのパンが食べたくて。」というあたたかい言葉も、悠紀さんにとって何よりの励ましでした。

「100%完璧なパン職人は難しいけれど、お客さんに育ててもらっているんです。自分が少しずつ成長できたら良いかなと思います。」
悠紀さんがパンづくりに見出したのは、自分らしさ。自分よりうまく作れるパン屋はいくらでもあるけれど、私は自分が思うベストのパンをつくればいい。自然とそう思えるようになったのは、「お客さんに喜んでもらえる場所にしたい」という思いで努力し続けた結果です。

お店「悠々閑々」は、悠紀さん一人で運営しているものの、彼女は決して一人ではありません。お店を支え、応援してくれる多くの人々の存在を意識しながら、彼女はお客様に悠々閑々を感じてもらえるよう、心を込めたパン作りとお店づくりを続けています。

パンを通して国産の良さをを広めたい

悠紀さんがパン作りで大切にしてるのは、「国産」と「地産地消」。
そして、日本の食料自給率はまだまだ低いので、国産の小麦を味わっていただくことで、日本の農業の大切さや地産地消という考え方が広まってほしいと考えています。
「酪農家さんや、農家さんに感謝が伝わるように、出来るだけ国内産にこだわっています。手頃な価格の輸入品に頼ることなく、国産小麦で作られたパンやお菓子を通して、国産の素晴らしさや地産地消の重要性を伝えられるよう取り組んでいます。」

店は自分を表現できる場所

「悠々閑々は、自分をありのままに表現できる場所」と話す悠紀さん。

今まで、色々な経験したからこそ、やっと出会えた自分だけの居場所。そして居心地の良い空間が見つかっただけではなく、自身の新たな一面も発見できました。

「今まで人生で避けていたり、苦手だったことも、お店を始めてからは私だけなので全部自分でやってきました。だけど実際にやってみると『案外できるんだ!』という驚きや、新たな発見があったんです。この年齢になって、自分でも知らなかった新しい自分に出会えることが面白いんです。」

先日、4周年を迎えた「悠々閑々」。
毎年お店の周年記念には、お客さんのためにプレゼント企画を行います。
手作りのエコバッグや巾着、箱入りクッキー缶など、毎年異なるアイテムを通じてお客さんに感謝の気持ちを伝えています。

「楽しんでやっています。小さな店だとできないこともあるけれど、小さな店だからこそできることを大切に。私ができる最大限のことで楽しんでいただければ嬉しいです。」

パンを通したコミュニケーション

「1対1で会話するより、パンを通してコミュニケーションした方が想いが伝わるんです。」

悠紀さんにとって、パン作りは自分を表現できるコミュニケーションの手段であり、それが「たまたまパンだった」と言います。

「いつか、みんなの憩いの場となるようなスペースを作りたい。今後も、小さな店だからこそできることを大事にしていきたいです。」

店に入った瞬間から感じる心地良さは、悠紀さんの好きなこと、大切にしていることがそのままのかたちでぎゅっと詰まっているから。

悠紀さんの営む『悠々閑々』は、ゆったりとした時間が流れる、みんながホッと一息つける心温まる場所となってゆくのです。

悠々閑々| ゆうゆう かんかん


神奈川県川崎市
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