旭川空港から車で10分ちょっと。北海道のほぼ中央に位置する東川町は、旭岳や大雪山など美しい大自然に囲まれたのどかな町。
上下水道がなく、地下水で暮らす町としても有名です。
東川町の中心地に入ると、お洒落なカフェ「liko」が見えてきました。
店主の桐原紘太郎(こうたろう)さんと、奥様のまどかさんが営む心地の良い空間がそこにはありました。
黒澤明監督「夢」
紘太郎さんは、子どもの頃から映画が大好きでした。きっかけは、中学1年生の夏休みにNHKで放送された、黒澤明監督の短編映画「夢」。
感銘を受けた紘太郎さんは次第に映画にのめり込むようになり、いつしか「映画監督」になることが夢となっていました。
初めは日本の映画に興味を持ちましたが、後にハリウッドや大きな市場での映画制作に魅力を感じ、大学からアメリカに留学することを決意。
夢を叶えるべく、中学からコツコツと英語の勉強を始めました。
「他の教科は全くもってダメだったんですが、英語だけは欠かさずに勉強しました。」
アメリカの大学へ進学を目指して、「高校3年間英語の成績でトップを取り続けること」
を条件に、両親を説得。
見事約束を果たし、アメリカでの生活を始めることになりました。
アメリカでの大学生活
アメリカでの大学生活がスタートした紘太郎さん。
世界各国から集まった、年齢も性別も、肌の色も全てが異なる、様々なバックグラウンドを持ったクラスメイトたち。
彼らと共に過ごす中で、文化や教育、宗教など、日本では「当たり前」「常識」とされてきたものが、海外では重要視されないことも多々ありました。
多様な価値観に触れるうちに、紘太郎さんは自身の価値観について見直すきっかけとなったのです。
クラスメイトと一緒に「映画制作」や「グラフィックデザイン」について学んだ3年半は、彼にとって忘れられない、とても刺激的な経験でした。
留学生としてアメリカで過ごした経験が、彼の映画制作の道への第一歩となり、現在の暮らしのあり方にも繋がってゆくのです。
グラフィックデザイナー
大学を卒業後、当初はアメリカで働くことを考えていた紘太郎さんでしたが、留学生がアメリカで就職するのはかなり厳しいものでした。
また、「監督業」と言っても、アメリカと日本では仕事の幅が全く異なりました。
アメリカの映画制作は分業化されており、各職種が分業して仕事を進めるスタイルが一般的であるのに対し、日本は監督業以外の様々な業務も一人でこなすスタイル。
結果的に、紘太郎さんは日本式の監督業に魅力を感じ、日本で就職する道を選びました。
日々、大学で映画制作について学ぶうちに、映画の魅力を伝える「グラフィックデザイン」にも興味を持った紘太郎さん。日本に帰国後は、メディアの広告などを手がけるグラフィックデザインの会社に就職しました。
その後、東京でアートディレクターとして働く中で、妻のまどかさんと出会い、結婚。
長女がお腹に宿り、幸せな生活が始まると思いきや、都会での生活に対して疑問を抱くようになるのです。
3.11 東日本大震災
2011年3月11日、まどかさんが臨月のころ、東日本大震災が起こりました。
「妻が産休に入る直前でした。でも交通も麻痺して携帯も使えない、数時間安否の確認もできませんでした。」
震災の前から、いつか都会以外の場所で暮らしたいと話していた紘太郎さんとまどかさん。この震災での出来事が、さらに都市生活から引越しを考えるきっかけとなりました。
「震災によって全ての価値観が変わりました。子育てするならやっぱり田舎に移住したい。自然との関わりや、自分たちで自給自足で生きていくパーマカルチャーな暮らし方について、すごく意識するようになったんです。」
子育てにぴったりの移住地を探し、西日本を中心にいろいろな地域を見て回った紘太郎さん。アメリカに住んでいた時の知人が昔住んでいたこともあり、福岡県糸島市に移住することに決めました。
そして、都会以外の場所で暮らすために、グラフィックデザイナーとして独立を決意。アメリカから帰国後、約10年ほど住んでいた東京に別れを告げ、紘太郎さんの新たな人生の旅が始まりました。
福岡県糸島に移住
糸島市に移住した紘太郎さん一家。
誰も知り合いのいない一からのスタートでしたが、震災の後は関東からの移住者がすごく多かったタイミングでした。すぐに知り合いも増え、自然いっぱいの豊かな環境で家族でのびのびと子育てを楽しんでいました。
糸島市での生活に慣れてきた頃、さまざまなご縁からカフェをオープンすることになった紘太郎さんとまどかさんは、スムージーやランチの店を開きました。
店を経営しながら、のどかで穏やかな糸島での生活に満足していたお二人でしたが、黄砂が多い時期があり、まどかさんの喘息が悪化してしまいました。
「空気と水がキレイな場所で暮らしたい。」
そんな思いから、2年間過ごした糸島に別れを告げることに。目的地は決めず、家族で暮らすのに最適な移住先を探すことになりました。
キャンピングカーに最低限の荷物を詰めて、家族で心地の良い暮らしを探す旅が始まりました。
旅の始まり
「移住するならニュージーランドに住みたい」と考えていた紘太郎さん。
「ニュージランドは自然が多く空気もキレイで、様々な法令によって自然環境が保たれているんです。また、地産地消を重視したパーマカルチャーも根付いた国で、自然との調和を大切にする暮らし方が、日本の昔の農家の生活とも似ていると感じました。」
「だけど、すぐに目的地に行くのはつまらないでしょ?」そう語る紘太郎さんは、長女と生後3ヶ月だった次女と4人で日本を出たあと、ニュージーランド、ハワイ、バリ、台湾…など色々な国を巡りました。
北海道一周
旅をする中で、海外への移住も視野に入れていた紘太郎さん。
フィリピンで旅をしているとき、突然パソコンが故障してしまいました。
「フィリピンでは、パソコンの修理に約1ヶ月かかると言われたんです。グラフィックデザイナーの仕事をしているので、そんなに待てないと思い、慌てて日本に一時帰国することにしました。そして、日本で修理に出したらたった1日で直ると聞いて、やっぱり日本ってすごいなと思いました。」
久しぶりに日本に戻ってきた紘太郎さん一家。
せっかくなので、今まで行ったことのない北海道を巡ることにしました。
キャンピングカーを自分たちで改装して、約3ヶ月かけて北海道をまわる旅が始まりました。旅をする中で、「北海道だったら東川町に行ってみたらいいよ!」と多くのキャンパーからお勧めされた紘太郎さん。
実際に東川町へ行くと「空気や水のキレイさ」に驚いたと言います。
東川への魅力を感じ、移住の候補として考えていた中、後押しされるような出来事が起きました。
家族で車に乗っている際に、後ろから追突される交通事故に巻き込まれてしまったのです。
「怪我などは何もなかったんですが、保険などの手続きが日本はすごく楽だなと感じました。これが海外で起きた事故だったら大変だったなって。日本の方が安全に暮らせるのかなと考えるようになりました。」
交通事故をきっかけに、本格的に北海道への移住を考えるようになった紘太郎さん。
そんな時に、たまたま東川町の liko organic café の物件に出会い、そのまま流れるように東川への移住が決まったのです。
たい焼きとスムージーの店「liko organic café」オープン
東川に移住した桐原さん一家。
気に入って購入した物件は、とても小さく狭かったため、家族4人で生活するには難しく、改装してお店を開くことになりました。
紘太郎さんは仕事柄、「モノづくり」が好きだったので、小屋もDIYで自分たちで改装しました。お店で提供するメニューは、以前糸島でも出していたスムージーと、たい焼き。
「自分はたい焼きが大好きで、色々なお店を食べて回っていたんです。どうせカフェをやるなら、自分が好きなものを作ってみようかなと思いました。」
全くの未経験から始まった、たい焼き作り。
生地の作り方や焼き方など、基本的な知識がなかったため、YouTubeの動画を参考にして試行錯誤しながら徐々に覚えていきました。
「当時のYouTubeは情報が限られていたので、老舗のたい焼き屋さんがたい焼きを焼く動画を見ながら独学で学びました。」
お店で提供したたい焼きは、一匹ずつ丁寧に焼く「一丁焼き」という焼き上げ製法。
食べ歩きをした中で、紘太郎さんが一番好きな焼き方でした。
一つひとつ丁寧に焼き上げるたい焼きは、こだわりから多くのお客様に喜ばれました。
店が繁盛する中、スムージーとたい焼きでは客層が異なることや、たい焼きは駅近の人が多く集まる場所でテイクアウトできるようにしたいと考え、新たに現在の店である liko to go をオープンすることに決めました。
liko to go
現在の店に移動してからは、たい焼きの他にシェイクやアイス、自家製シロップのかき氷やハンバーガーなど、様々な商品に挑戦してきました。
「アイスクリームやハンバーガーは、自分の大好物です。アメリカで生活する中で色々なお店を巡りました。そこで好きだった味を再現してみようと思って始めました。」
販売しているハンバーガーは、バンズから全て自家製で焼き上げています。
独学でバンズの製法を学び、様々なレシピを参考にしながらオリジナルの商品を開発。
しかし、シェイクなどはオペレーションが難しく、続かなかったそうです。
「自分は新しい商品を色々考えて、挑戦することが好きなんです。だけど飽きっぽい性格なので、お客さんからの反応がイマイチだったら辞めて次に行くんです。失敗してもいちいち凹んでいる暇なんてありません。」
liko
店名の「liko」はハワイ語で花の蕾、希望、未来という意味。
4人の娘さんの名前も、みんな花の名前が付けられています。店名も明るい希望や未来を込めて、名付けられました。
紘太郎さんはハワイに旅行した際、現地の人の暮らしにとても魅了されました。
「自給自足をしながら大地と共に生きる」ことや、「家族と共に生きる」ことをとても大切にしてるハワイの人々の生活に、日本とはまた違った魅力を感じたのです。
「ハワイに行ったとき、現地の人の生活を見て『そんなに頑張らなくていい』と言われているみたいでした。生きているだけで十分豊かさを感じている姿に衝撃を受けたんです。仕事だけではなく、生活とのバランスが取れた幸せそうに暮らす彼らを見て、生きる上での価値観を見直すきっかけとなりました。」
「旅の途中」
現在、ハンバーガー屋を経営しながらグラフィックデザイナーとしても活躍している紘太郎さん。将来は、お店を大きくすることには興味がなく、自分たちで運営できる範囲で続けていきたいと話します。
「一番大切なのは限りある時間です。今は忙しいですが、いずれはゆったりと家族と過ごす時間を大切に暮らしていきたいです。それに、ずっとここにいるつもりもなくて。子供たちの成長に合わせて、またどこか場所を変えるかもしれません。次は海外に移住しているかも?だって、先が見えた人生なんて面白くないですから。」
彼の人生はまるで「旅」のようであり、今もまだ「旅の途中」だと言います。
暮らしに必要なのは、旅に持っていく最低限度のもの。
紘太郎さんは自然と調和しながら、家族との時間を大切にして、今後も旅を続けていくのです。
liko| りこ 北海道東川町 |